「カムチャツカ半島は昔、日本だったらしい」――そんな話を耳にしたことはありませんか?
17~19世紀の古地図や条約の変遷、そして戦前に栄えた日本人漁業基地の実像をたどると、日本とカムチャツカの知られざる濃密な関係が浮かび上がります。
本記事では「カムチャツカ半島 日本」「カムチャツカ半島 日本領」を軸に、領有説の根拠と限界、日本人の居住史、現代の状況までを分かりやすく解説します。
1. カムチャツカ半島とは
カムチャツカ半島は、ユーラシア北東部に長さ約1,200㎞で伸びる火山半島です。
日本では江戸期から「勘察加(かむさすか)」と呼ばれ、南端のロパートカ岬は千島列島・占守島と向かい合っています。
以下の地図で、真ん中やや右にある【Kamchatka Peninsula】と表記されている半島がカムチャツカ半島です。

2. 江戸時代の“日本領”認識はなぜ生まれたのか
| 年代 | 日本側の動き | ロシア側の動き | 影響 |
|---|---|---|---|
| 1700(元禄13) | 松前藩が蝦夷全図と郷帳を幕府に提出。勘察加を自領と記載 | コサックが半島へ入植を進行 | 地図上での「日本領」意識が強まる |
| 1715(正徳5) | 松前藩主、幕府に「十州島・唐太・チュプカ諸島・勘察加は松前領」と報告 | ― | 公式文書で領有を主張 |
| 1854(嘉永7) | 豊島毅らがカムチャツカを含む『改正蝦夷全図』を刊行 | ― | 庶民にも領有観が普及 |
当時の主張は“地図に描いた=実効支配”の域を出ず、松前藩はアイヌ交易に依存し半島へ行政機構を持ち込まなかったため、国際法的裏付けは乏しかったと言えます。
3. 日露和親条約で国境が確定
1855年の下田会談で締結された日露和親条約は
①択捉島とウルップ島の間を日露国境
②カムチャツカはロシア領
③樺太は画定せず と定め、日本は公式に勘察加領有を放棄
以降「日本領説」は歴史文献上の主張として残るのみとなっています。
4. それでも日本人が住んだ理由――ポーツマス条約と露領漁業
国境が確定しロシア領となった後も、カムチャツカに住む日本人はいました。
1905年ポーツマス条約で日本は
・沿海州・カムチャツカ半島沿岸の漁業権を獲得
・1907年の日露漁業協約で詳細を整備
結果、半島西岸を中心に日本人が漁区を大量租借。※(「租借」とは、国家が、他国の領土の一部を、一定の期間と条件のもとで借り受けること を意味します。)
大正7年にはサケ・マス漁獲量が72,000トン、従事者は1万6千人に達しました。
函館市史によると第1回競売(1907年)で日本人が落札した漁区の66%がカムチャツカ西海岸に集中したそうです。
5. 戦前の日本人コミュニティとその終焉
ペトロパブロフスクには堀江商店など商会が進出し、日本人学校も開設されました。
しかし、
・1930年代の戦時体制強化で漁業縮小
・1945年のソ連対日参戦で権益消失
・終戦直後の引き揚げ・抑留で多くの人が帰国、または死亡
こうして“露領漁業”は歴史の幕を閉じた。
6. 現在のカムチャツカと日本人
現在、カムチャツカに定住する日本人はごく少数とのことです。
ウラジオストク経由やチャーター直行便の観光ツアーは2019年まで運航されたものの、ウクライナ侵攻と対露制裁で停止中。
先住民では千島アイヌの一部が19世紀末に移住し、のちにカムチャダールへ同化した記録が残っています。
※(カムチャダール(Kamchadal) は、ロシアのカムチャツカ半島に居住する民族、またはその歴史的な呼称です。)
7. 「カムチャツカ日本領説」をどう見るか
●根拠
・松前藩の歴史地図・報告書
・江戸知識人の北方開拓論(吉田松陰『幽囚録』など)
●反論
・実効支配の欠如――役所・砦・定住者が存在しなかった
・1855年以降の条約で日本もロシア領を承認
・主権の移譲や割譲条約は存在せず、現代国際法ではロシア領が確定済み
したがって「かつて日本領だった」という表現は歴史的主張の域を出ず、領有権を裏付ける法的根拠はないと言えそうです。
まとめ:カムチャツカ半島は日本だった?
カムチャツカ半島は江戸期の松前藩が地図上で「勘察加(かむさすか)」を自領視したことで“日本領説”が生まれました。
しかし、1855年の日露和親条約で正式にロシア領となり、その後は漁業権を介した経済進出に留まります。
戦前に最盛期を迎えた日本人漁業基地も戦後消滅し、現在はわずかな観光交流が残るのみです。
歴史資料が示すのは「領有したこと」ではなく「領有を主張し、経済的に深く関わった」という事実。
カムチャツカをめぐる日本の足跡は、北方世界とのダイナミックな交錯の証しと言えるでしょう。
カムチャツカ半島の人口は?を解説した記事はこちら

